無差別刃物切りつけ事件
10月31日の京王線内で起きた事件は、8月の小田急線内無差別刃物切りつけ事件の記憶も残る中で起きた恐ろしい事件です。
31日午後8時ごろ東京・調布市の国領駅近くを走行していた京王線の車内で72歳の乗客の男性が刃物で刺されて意識不明の重体になっていて、さらに中学生を含む16人が煙を吸うなどしてけがをしました。
8月のケーススタディ「感情爆発はなぜ起こる?」でもお伝えしたように、無差別という犯行はいちばん恐ろしい社会不安を引き起こす社会全体の課題であります。無防備なところを理由なく襲われるのですからこれほど恐ろしいことはありません。
拡大自殺
拡大自殺とは、以前も紹介したように、対象が無差別で通り魔事件のような事件で、自殺願望のある者が他者を巻き込む自殺を言いますが、1980年代から事件を追ってみると、ここ10~20年くらいは増加傾向にあります。
コロナ禍の中で、働けない、収入がない、生活できないという経済的苦痛から精神が不安定になってしまうケースも増えていると思います。
しかし、それだけで犯罪を犯すわけではありません。どんなに苦しくても辛くても何度でも仕事を探し苦境を乗り越えていく人もたくさんいます。
どうにか防ぐ方法はないものでしょうか?
ニュースでは「子どもの頃はおとなしかった」「中学生の頃は勉強もできた」などと報道されることがありますが、では、いつ頃からどんなことがキッカケとなり思考に歪みが生じてきたのでしょう?
いつも私は思うのですが「誰も赤ちゃんのときから犯罪者になろうと思う人間はいない!」
自殺も他殺もです。
赤ちゃんは生きるための本能が備わっていますから、生きるためにお腹が空いたことを知らせようとして泣きます。オムツが濡れて気持ち悪いことを知らせるために泣きます。赤ちゃんもコミュニケーションを求めて泣きます。言葉を覚えるまでは大きな声で泣いて知らせます。気づいてくれるまで泣きます。これは生きるための本能が脳に備わっているからです。人は生きたいものなのです。
人間は本能で生きたいと思っていますから、死にたいという気持ちは「死にたいくらい辛い、苦しい、どうしていいかわからない」という悲鳴なのです。本当は助けてほしいのです。救いを求めているはず。
ではなぜ?
乳児期⇒幼児期⇒児童期⇒思春期⇒青年期と進む成長の中で、どこで、どのように、どんなふうに思考と感情の変化が起こるのでしょうか?
事件を起こすときには共通点があるようです。
強い孤独感、社会からの疎外感、強い被害者意識、強い不満、自己否定感を抱いていて、それらを強い「怒り」のエネルギーとして犯罪を実行に移してしまう。
突然の被害者を出さないためには加害者を出さないこと。
誰ひとりとして加害者にしないためには、どうしたらいいのでしょうか?
やはり、人間を孤独にしてはいけないということでしょうか?
それには子どもを取り巻く環境を整備していく必要があります。
今はまだ、理想かもしれませんが、学校にも地域にも子どもを見守るサポーターが必要です。
子どもは社会全体の子として、みんなで健全に育てていく。親だけが親ではなく周囲のおとなたちが我が子のつもりで見守っていく。見守りと監視はちがいます。全くちがいます。監視ではありません。
見守るという意味は、たとえば幼稚園でも保育園でも学校でも「子どもの気質」に気づいてあげます。生まれ持つ気質にはいろいろあります。脳で感じる感覚機能、感受性、反応をみます。
子ども一人ひとりの気質のちがいをよく知る、よく理解する、おとなは共有する。これがだいじです。
これを両親だけに委ねることは不可能です。負担が大きすぎます。親子の関係も感情が入ると難しくなることがあります。他人のおとな(専門知識がありトレーニングもしている人)が介入することで良い結果になるでしょう。ただし民間では困難な要素もあるので政府が公的な人材をつくることが必須でしょう。
そうして、感受性の敏感な子も鈍感な子も互いにちがいを知って理解し受け入れることができるようになると「孤独・孤立」にしない、させないことが可能になるように思います。
成長の早い段階で「孤独・孤立」を防ぐことができたら自殺も他殺もかなり防げるように思います。
犯罪者の中で、もし仮に脳になんらかの障害をもっているとしても、早い段階で気がついてあげられれば加害者にせずに、保護してその人の人権を守ることができるかもしれないのです。
拡大自殺を図るのは、本当は誰よりも人一倍怖さに敏感な証拠かもしれません。
偏見を持たずに気づくことがだいじです。
疑いも持たずに気づくことがだいじです。
見守るというのは、個々のちがい、個性に対して偏見も疑いも持たずに、きちんと誠実に向き合うことです。
難しいかもしれませんが、そういう社会になるといいですね。
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